「砂の祭典」にかける想い

「砂をまちの魅力に」vol.01

管理人

「砂の祭典」の実施責任者ともいうべき実行委員会の会長は、南さつま市長が務めています。そこで、本坊輝雄市長にこれまでの関わりや今回の大会にかける意気込みを伺いました。

インタビュー・文=砂の祭典広報部会 クボ

南さつま市長 本坊輝雄
(吹上浜砂の祭典実行委員会 会長)

平成21年11月 南さつま市長 就任
昭和62年に開催された第1回「砂の祭典」の立ち上げから関わってこられました。
30回記念大会にあたって、長い間支えてくれたみなさんの気持ちを受け止めて、その歴史を踏まえた大会にしたいという熱い想いを持っていらっしゃいます。

南さつま市長 本坊輝雄(吹上浜砂の祭典実行委員会 会長)

「オアシス」の思い出

ーー早速ですが、本坊市長は第1回の「砂の祭典」から関わってきたと聞いたのですが、第1回の「砂の祭典」では何をされていたのですか?

あの頃は、ちょうど加世田青年会議所が設立された時で、ぼくは市議会議員(旧加世田市)をしており、当時の立ち上げメンバーになっていた。青年会議所でいろいろな話をする中で、「加世田には特徴がないよな...。」とよく言われるなか、特色あるまちづくりをしたい! という思いを抱いていたところ、県の職員の方の親戚がアメリカ(サンディエゴ)にいて、そこで砂像アートというものがあることを聞いた。

この砂像アートを参考にできないかと思い、市や商工会議所のご理解を頂いて挑戦することになった。早速吹上浜の砂をアメリカへ送り見てもらった。おそらく、ダンボール1箱分くらい送ったんだと思う。そしたら現地の人が砂質を見て、「きめが細かい。これはサンドアートに適している」とのOKを頂いた。そこで、昭和62年4月、サンドアートの第一人者であるゲーリー・カーク氏を招いて新川海岸に名古屋城を作って頂いた。

それがうまくいったもんだから、すごく皆感激して、「これでイベントをやろう!」となり、その年の7月下旬に日本初の砂のイベントを開催した。それが第1回目。新川海岸(※)では15年開催したが、8月に砂浜で実施することからとにかく暑くて、それに駐車場が遠く、延々と歩かないと会場にたどり着けないこともあり、来場者からの不満もあった。一番苦しかったのは会期の5日間に台風が3回も来たとき! チケットは既に販売しているため開催をすごく悩んだこともあった。

※ 新川海岸 吹上浜の中でも万之瀬川の河口にあたる部分の海岸。

ーー台風が3回も来るってすごいですね! 本坊市長はそんな中、具体的には何をされていたんですか?

その頃は、今みたいに地元のお店が物産の販売をするような時代じゃなかったし、会場のそばに飲食店もなかったから、自分たちでお店をやろうということで砂丘の中の「オアシス」という売店を青年会議所でつくったわけ。ぼくは芸術的な才能はないから、先輩の命令を受け、オアシスの店長を任されていました。

ーーそうだったんですかー! じゃあ今も物産ブースを見て懐かしく思うんじゃないですか?

そうそう、懐かしいよ。あの頃は全部自分たちで用意しないといけなかったからね。海岸には水もないから、青年会議所で500リットルのタンクを2つ購入して水を持っていったり、常設冷蔵庫をつくったり、紙容器はもちろん、電動のかき氷器も当時3万円もするものを2台も買って「先行投資だから」って先輩方を説得してさ。

オアシスの様子
*たくさんの人で賑わうオアシスの様子

ーー本当にお店屋さんだったんですね。売り上げはどうでした?

一番評判が良かったのは、竹の食器に冷や素麺を入れた「竹素麺」! 津貫で竹を切ってきて、自宅でその竹を割って、ささくれを取るのに角を削って、っていう作業を十何人かでしたよね。田代昌弘さん(※)がその時怪我をしたのを覚えてるな〜(笑)。

予算もないからうちでにぎりめしかなんか食べてね。そうして竹の食器を準備して素麺をつくったら売れたよー。やっぱりイベントの昼食は回転率をあげることだよね。竹の食器に素麺を予め入れておいて、注文が入ったら氷を入れてざっと水をかけてパッと出して、それで食べ終わった食器もすぐに洗えるから準備も早いしね。

※ 田代昌弘 後に砂の祭典実施推進本部長を務めた。現NPO法人プロジェクト南からの潮流理事長。

ーー本当の店長みたいですね(笑)

当然です! カレーも販売しましたよ。カレーのルウはそこでつくるからいいとして問題はご飯。給食センターの協力をもらって、リンゴを入れる発泡スチロールの大きな箱に給食センターで炊いたご飯を詰めて運んできてもらいました。ご飯を一度にたくさん炊くのは難しいからね。それから、当時は生ビールってなかったのを知ってる?

ーーいや、知らないです世代的に。

当時はドカンビールといって、「一どん」の焼酎瓶みたいな形のもっと大きい瓶(確か2リットル弱入ってる)でビールが売ってたんだけど、今のビールの3本分くらい入ってたかな。確か1本千円くらいだったかなあ。このビールを、コーラを野外販売する赤ケースで冷やしてて、注文があったらそれをコップについでねぇ。すごく売れたことを覚えてるなぁ。

当時は全て青年会議所が仕切ってたからね。とにかくぼくにとって「砂の祭典」の思い出といったらこの売店「オアシス」だよね。店はそこしかないから大テントの中で集中管理をしてね。そのうち、うちも出店したいという事業所も出てきたけどね。

ーー初回からそういう仕事をされていたんですか?

いや、正直言うと初回のことはあんまり覚えていない(笑) 青年会議所でも若い方で周りの手伝いみたいなことをしてたから。店長をしたのは2回目からだったと思う。朝礼から始まり店の管理も含め、砂の祭典の時期は現場に2週間くらいずっといて、本当に店長だったよね。だから今の物産のブースを見ても「もっとこうすれば物が売れるのになー」とか思うよ。

ちなみに、市議会議員だったから、議会で「砂の祭典」ポロシャツを着てくれって議員にお願いしたり、砂の祭典実行委員に出向したのはぼくが第1号でしたね。それで寄附集めをしてね。31歳とか32歳の頃だったかなあ。

シャ乱Qのライブで傘が大人気!?

ーー今までで一番思い出深い大会はありますか?

やっぱり台風との戦いかなあ...! 台風の朝会場に行ってみたら、お店のシンクが海にプカプカ浮いてたことがあってね。

ーーシンクが海に...!? それはどういうわけで??

台風の時に潮の流れが変わって海岸が波でえぐられて、砂浜だった場所が海になってしまっていたわけ。

ーーそれでどうしたんですか、お店は?

別の場所に移動して開いたよ。今となっては良い思い出だけどね。それからシャ乱Qが来た時もよく覚えてるなあ。朝6時くらいから600人くらい会場に並んでね。福岡とか随分遠くからのお客さんがずらっと。どんどん増えていくの。ライブがあるのは夕方の6時くらいからなのにだよ!

ーーそれは想定外だったんですか...?

ライブを依頼したのは「砂の祭典」の半年前くらいだったと思うけど、その時はまだシャ乱Qの知名度はあまり高くなかったんじゃないかな?依頼した後に爆発的人気が出だして、「砂の祭典」はシャ乱Qのライブが600円くらいのチケットで見られるっていうことでとにかく人が大勢集まったわけ。

それで、たくさんの人たちが夕方まで炎天下の中ライブを待つわけだから、こっちは「オアシス」の店長として「市内の傘を全部買ってこい!」って命じてね。その頃は今みたいに100円傘みたいなのがどこでも売ってる頃じゃないから。で、暑さをしのぐために、日傘が欲しくなるわけで、柄はどうでもいいからとにかく傘が欲しいと。それで、傘が大人気になったわけ。

シャ乱QのLIVE
*砂の祭典会場を沸かしたシャ乱QのLIVE

ーーで、どうだったんですか?

傘を求めてとにかくすごい人が集まって購入していきましたよ。それから、思い出深いといえば、「砂の祭典」ではないんだけど、新川海岸で15年開催していた頃の話で、平成8年くらいにぼくは砂像の世界大会に出たことがあるんだ。

世界大会のために5人でカナダのスイートスプリングに行ったんだけど、この大会は、4人のチームだったら25時間の持ち時間、2人だったら50時間。参加人数によって持ち時間が異なる大会となっており、5人で出場した中でぼくだけが砂像をつくれないからサポート役に徹してた。

これが見たこともないやり方をする大会で、湖の砂浜でこれくらい(と言って市長室を指し示す)の広さにロープが張ってあって、そこの砂地を掘るところからスタート。どんどん穴を掘って砂を高く積み上げる。そしてその積み上がった砂で砂像をつくっていくわけ。

ーーその中で砂像をつくらなかったということは、どんなことをしてたんでしょうか? 穴掘りとか?

穴掘りもそうだけど、砂像を彫るにはいろいろ道具が必要になるので、「あれ取ってくれ」「これ取ってくれ」みたいなのが出てくるから、道具の受け渡しや雑用をしてたね。向こうには日系人の方も多くて、観客がいろいろ聞いてくるからそれの対応をしたり。それでカナダに一週間くらいいたかなあ。

ーー成績はどうでしたか?

正確には覚えてないけどだいぶ良い成績だったよ。でもバンクーバーには日本料理屋がたくさんあったので、その賞金を全部使って帰ってきた(笑)

「さっぽろ雪まつり」がライバル

新川海岸で開催した15年間、いろんなことがあったけど、ともかく台風を含めリスクが大きすぎたっていうのが一番の問題。それでかせだドームに場所を移して8年間やったけど、ここは狭くて広さの問題。会場への動線も悪くて車の渋滞も酷かったしね。売店はドームの中に設置できたから、お店の方は良かったけど、何年も砂を搬入していくうちに砂に不純物が混じるようにもなって砂質が悪くなり、手狭だから別の会場でとなって...。

本当は、恒常的に砂像を展示するような「砂像パーク」が欲しいなぁっていう構想もあったんだけど...。ちょうどぼくが市長になるかならないかという時、現会場の「金峰レクの森」の整備が懸案事項になっていたため、ここを砂の祭典会場として活用していこうということで英断し今に至りました。今回の「砂の祭典」は30回記念大会であると同時に、次世代につなげる「砂の祭典」のあり方について考える大きな節目になると思っている。

ところで、20数年前に「さっぽろ雪まつり」みたいに盛り上げたいってことで、砂像連盟で一度「さっぽろ雪まつり」に参加させてもらったこともある。北海道と鹿児島の交流の架け橋になればと継続的な参加を考えていたがなかなか継続的な参加が難しくて悩んでいる時に偶然、飛行機の機内誌で旭川の方でも雪まつりを開催していることを知って、「旭川で雪像をつくらせて欲しい。自力で旭川まで行きます!」っていうラブレターを送ったら大歓迎となり、行ったのが平成9年参加。それが今も続く旭川との交流のきっかけとなり、雪と砂の交流から人と人の交流に発展してきたんだよね。

ーー「さっぽろ雪まつり」に参加したことがあったんですね。知らなかったです。今でも「さっぽろ雪まつり」がライバルなんですか?

向こうは誰でも知ってる一大イベントに成長してるわけだから。「砂の祭典」すごいね! っていう声が「雪まつり」みたいに浸透してほしいよね。

ーー本当にそうですよね。砂像の魅力も雪像に負けないですから。それでは最後の質問です。本坊市長は、砂の祭典実行委員長でもあるわけですが、この30回記念にかける想いは?

まずはじめに、私も「砂の祭典」のスタートから携わってきたものの一人として、加世田時代で18年、自治体の合併で南さつま市になって12年、本当に長い間支えて頂いたみなさんの気持ちを受け止めて、その歴史を踏まえた大会にしたい、ということ。

つぎに、やっぱり熊本の復興を応援したいということ。今回の祭典では、熊本の崇城大学の学生に来てもらって熊本城の砂像を作ってもらう。熊本城の復興にはまだまだ時間がかかるので、継続的に熊本の方から、毎回学生にきてもらって、砂像で復興を応援したいなという気持ちがある。

ーー昨年の「砂の祭典」でも熊本復興を掲げて、砂像に「くまモン」を掘ったり、募金も集めましたもんね。

募金も大事だとは思うけど、やっぱり人を元気にするっていうことも必要だし、それに鹿児島の人の熊本の震災を忘れてはいけないという意味合いでもある。熊本県民の誇りであり心の支えでもある熊本城の再建、その心を共有していきたいなということ。それで熊本に芸術学部のある大学はないか探したところ、崇城大学に芸術学部があり企画内容を説明したところ快く引き受けていただいた。

砂の祭典についてはさまざまなご意見がありますが、動いていれば何かが生まれてくる。まだまだ南さつまには外に売り出していける魅力がたくさんあると思うから、そういうものを発信するためにも砂の祭典ももっと盛り上げていきたい。

取材:2017年2月10日

インタビューを終えて
本坊市長が売店の店長をしていたというのは驚きました。しかもシャ乱Qのライブで傘を売る話といい、竹素麺を売る話といい、商才に長けていると感じました。この調子で南さつま市の売り込みにも奮闘していただきたいと思いました【クボ】。